フランツ・カフカの最期を看取った、カフカの最期の恋人、ポーランド系ユダヤ人女性、ドーラ・ディアマントの伝記。
ドーラ・ディアマントは、1898年に、東ヨーロッパ、ポーランドのハシド派ユダヤ 教徒の家に生まれた。 シオニストの夢を追い、自由で革命的な『西側』での人生を夢見て、近 代的都市ベルリンへ移り、ミューリッツでフランツ・カフカと出会った。 フランツ・カフカが 、プラハの両親の家を出ることを望みながらそれを実現できないでいたことは有名だが、ドーラ・ディアマントはこれを実現させ、カフカと一緒にベルリンで暮らし始めた。
当時のドイツは、酷いインフレにみまわれ、国家の財産は崩壊し、金銭の価値も失われ ていた。食料や燃料も不足し入手が困難で、人は皆、毎日の食事にさえも困っていた。 カフカの両親は、カフカとドーラに食料の小包を送って援助していた。
カフカは後にサナトリウムに入院したが、それでも病状は悪化する一方で、カフカはウ ィーンの大学病院に移された。 カフカは、当時医学生で自分の研究を中断して駆けつけた、ロ ーベルト・クロップシュトックとドーラに介護され、キールリングの療養所でドーラの腕の中で息を引き取った。
カフカの死後、プラハのカフカの両親の家にしばらく滞在した後、ドーラはベルリンへ 戻り、プロの女優になった。 カフカの親友であり編集者だったマックス・ブロートがドーラに 、カフカがドーラに書いた手紙や彼の遺稿を彼に手渡すように依頼したが、ドーラは自分がカフ カの遺稿を所持していることを否定し、密かに隠し持っていた。これらの文書は、1933年に、ゲシュタポによりドーラのアパートから没収されてしまった。
ドーラは共産党のメンバー、ルッツ・ラスクと結婚し、娘「フランツィスカ・マリアン ネ」が生まれた。 後にドーラは義父と娘と一緒にソビエトへと逃れ、その後また娘を連れてソ ビエトを脱出し、イギリスに入国した。ドーラと娘の「マリアンネ」は、イギリスのマン島の女 性収容所に移され、解放後はロンドンで友人の運営する「イディッシュ語の友」を手伝い、イディッシュ語やイディッシュ文学の継承を図った。
ドーラは腎臓の病気で1952年、ロンドンのイーストハムで死亡した。 1999年には、イスラエルとドイツから親類が集り、ドーラの墓に墓石が設置された。
ドーラが残した手紙、イディッシュ語で発表された文書、カフカに関する未発表のノー ト、カフカの遺稿にまつわるエピソード、ゲシュタポやコミンテルンのファイルなど、それまで 誤解されていた作家フランツ・カフカの理解における貢献は大きい。 この 「カフカの最後の 恋人」には、当時の東ヨーロッパ・ユダヤ文化と西ヨーロッパ・ユダヤ文化の二面的バックグラ ンドに加え、カフカの死後に彼女が経験したヒットラー政権、ナチスによるユダヤ人浄化、女優としても人生など、波乱に富んだユダヤ人女性の人生が描かれている。
More reviews about the カフカの最後の恋人―ドーラ・ディアマントの謎